雄神橋の東詰め、庄川にせまる壇の山に、壇城と呼ばれる城跡があります。この城は庄の高台にあるので庄城とも呼ばれています。
この壇城については、規模長さ50間(91m) 横48間(87m)であったと享保(1716)頃に書かれた『金子文書』には記載が残っています。
壇城跡からさらに1.5km奥に入った三条山(標高334m)の一画に千代ヶ様という地名がありここに本丸があったと言われています。近年の調査で、壇城を平時の居舘とみなし、千代ヶ様城を戦時における詰めの城とみる、いわゆる一城別郭式の城郭であったと考えられます。したがって、壇城は白としての形式は整っておらず、千代ヶ様城はかなりの要害の地にあり、中世の典型的な山城で、砺波平野を一望できるなど好条件が整っていました。築城年月は明らかでないが、築城形式から見て南北朝時代(1331~)頃のもので、砺波平野では、井口城・野尻城とともに、桃井直常(もものいただつね)の一大拠点であったといわれています。
<壇の城跡>
築城年代及び築城主は明らかではないが、1300年代半ば、桃井氏が壇ノ山に築城したとされる説が有力。その後、1500年代には石黒氏の居城となるも、天正年間に上杉氏に攻められ落城したらしい。一説には、神保氏の居城となったともされる。
壇の城と千代が様城は、別の城だという説もあるが、最も有力なのは、壇の城は、別名「台所屋敷」とも呼ばれた平時の居館であり、1.5キロほど離れた三条山の上にある千代が様城が詰めの城という説である。
壇の城の規模は、東西約100メートル、南北約87メートル。千代が様城は、東西約64メートル、南北約13メートル程と言われる。
金屋は壇の城の主が、刀や馬具、農具などの製造のために鍛冶職人を呼び寄せたものである。火を扱うため、あえて城から離れたところに住まわせた。また、古くから飛騨や五ヶ山からの木材の集散地であったことから、その仕事に使う鳶口などの製造もおこなっていたと考えられる。